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2007年8月12日(日)開設
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さるびあ図書館のD51 862[再訪]
12月11日の話。
※前回訪問時の様子や車両データについてはこちらの記事をご参照ください。 この日は、D51 862号機を再訪してきました。 相変わらずプレートはプラスチック製のもの。 整備されている方がいらっしゃったので少しお話を伺いましたが、いたずらが多く維持が大変だそうです。先日は窓枠が壊され、代替のものを取り付けようとしているものの、腐食が進んでいてなかなか難しいそうです。 キャブ内は計器類の欠損が目立ちます。機器類はできるだけ現役時代と同じ色に近づけたいものの、使用できるペンキなどの関係から再現が難しいものもある、とのこと。 動輪は油で磨かれており、刻印も確認できました。 これからも頑張ってください、また伺いますとお伝えして見学終了。 こうして定期的に手入れがされているカマは全国的に見ても少なく、訪問すると嬉しくなりますが、整備したSLをイタズラする輩がいるのは残念です。整備されている方々の思いを踏みにじる最低の行為です。 PR
青梅鉄道公園の保存車(2)
7月28日の話。前回記事の続きです。
前回に引き続き、青梅鉄道公園の保存車をご紹介します。 110号機。 ・車歴 製造年 1871年(国鉄10号機として) 製造所 Yorkshire Engine 1886年秋 江尻機関区 1909年10月1日 110号機に改番 1920年6月 東京鉄道管理局 1923年12月 大宮工場にて保存 1924年4月10日 新橋機関区にて廃車 明治4年(1871年)、イギリスのヨークシャー・エンジン社で製作され、鉄道創業時に「10号機関車」として新橋ー横浜間に使われ、のちに「3号機関車」と呼ばれた最も古い機関車の一つです。 明治42年(1909年)に「110号機関車」と名前を改め、その後、各所で活躍した後、大正7年(1918年)まで汐留駅構内入換に使われていました。 大正12年(1923年)から昭和20年まで国鉄大宮工場の鉄道参考品陳列所に展示され、陳列所がなくなったあとも、ずっと工場に保管されていたものです。昭和36年10月14日鉄道記念物(16番目)に指定されました。(案内板より) 大宮工場時代に切り開かれたままでちょっと残念な状態です。公式側は切り開かれていないのですが、こちら側には案内板が立てられており、すっきりと見ることはできません。 動輪には薄いながらも刻印が残っていました。こちらは164号機のものが転用された? キャブ内。 後ろから。 続いて5540号機。 ・車歴 製造年 1897年(175号機として) 製造所 Beyer Peacock 1906年5月31日 盛岡機関区 1909年10月1日 5540号機に改番 1931年3月31日 白山機関区 1935年3月31日 大館機関区 1940年3月31日 新鶴見機関区 1941年3月31日 高島機関区 1951年5月31日 横川機関区軽井沢支区 1953年9月 五稜郭機関区 1955年8月1日 札幌工事局 1962年10月26日 札幌工事局にて廃車 この形式は明治時代の後半より大正初期にかけて旅客列車用として愛用された機関車です。当時60両もありました。 この機関車は明治30年(1897年)英国のバイヤーピーコック社で製作され第一線で活躍した後は入換機として使用されたのち札幌工事局で、昭和36年まで工事用として活用されていました。(案内板より) 明治製の中型蒸気。一部は国鉄から引退後私鉄に譲渡されており、東武鉄道の譲渡車は多く保存されていますが、国鉄仕様で残っているのはこの5540号機のみ。 キャブ内。 後ろから。 続いて2221号機。 ・車歴 製造年 1905年(470号機として) 製造所 North British,Hydepark Works 1905年 陸軍野戦鉄道堤理部 1909年 国内帰還 1909年10月1日 2221号機に改番 1931年3月31日 熊本機関区 1932年3月31日 鹿児島機関区 1943年3月 青森機関区 1949年3月1日 東能代機関区 1955年8月1日 土崎工場 1960年5月7日 土崎工場にて廃車 この形式は明治時代のタンク機関車としての強力機関車で日露戦争(1904〜5年)当時急にアメリカやイギリス、ドイツなどに注文し一部は満州でも使われました。当初はB6形と呼ばれ両数も多かったので(最も多いとき268両)貨物列車用や勾配線用として至るところで活躍し戦後もしばらくの間入換用として使用されていました。 この機関車は明治38年8月(1905年)英国のノーズブリティッシュ社で製作され昭和30年3月まで使用されました。(案内板より) 製造後の数年間は満州で使用、帰国後は九州を経て東北で引退したカマ。 動輪は塗装されています。刻印は確認せず。 キャブ内。 後ろから。 続いて、8620号機。 ・車歴 製造年月日 1941年4月3日 製造所 汽車製造 1941年7月20日 鳥栖機関区 1922年 吉松機関区 1927年4月1日 若松機関区 1936年1月31日 高知機関区 1939年3月31日 備後十日市機関区 1940年3月31日 松山機関区 1958年9月11日 松山機関区にて廃車 この形式は明治末期に輸入された各種の機関車の長所を取入れ、日本で設計製造された非常に優秀な性能をもった機関車です。全部で670両もつくられ、各地の幹線旅客列車用として使われた大正時代の国鉄を代表する機関車です。 この機関車は大正3年(1914年)汽車会社によってつくられ九州で活躍後、昭和10年四国に移され、昭和33年9月廃車となったもので多度津工場(香川県)に保存されていました。(案内板より) ハチロクのトップナンバー。 動輪は塗装されています。薄い塗装のため刻印も確認。 プレート周り。 キャブ内。 後ろから。 最後に、9608号機。 ・車歴 製造年月 1914年1月 製造所 川崎重工 1914年1月30日 神戸鉄道管理局 1931年3月31日 亀山機関区 1933年3月31日 奈良機関区 1933年7月31日 奈良機関区加茂支区 1934年3月31日 姫路機関区 1935年3月31日 鷹取機関区 1938年4月30日 奈良機関区加茂支区 1939年3月31日 鳥取機関区 1941年3月31日 福知山機関区 1943年3月31日 吹田機関区 1958年9月 竜華機関区 1962年7月23日 大宮機関区(保存のため) 1962年10月26日 大宮機関区にて廃車 この形式は大正時代の代表的な貨物機関車で充分な火室面積を得るため動輪上に火室を置いたのが特長で、このためボイラ中心線は非常に高いが引張力は強大で、大正12年(1923年)D50形式が出現するまで貨物列車用や勾配線用の標準形として毎年製造され、その両数は784両にもなりました。テレビ映画「旅路」に登場したのもこの形式です。 この機関車は大正2年(1913年)川崎造船所兵庫工場で製作され、昭和37年7月まで関西方面で使用されていました。(案内板より) こちらも大正生まれのキューロク。 動輪は塗装されています。 プレート周り。 キャブ内。 後ろから。 むさしの奥多摩号は結局夕方まで上って来ず。この日はこれにて帰宅。
青梅鉄道公園の保存車(1)
7月28日の話。前々回記事の続きです。
むさしの奥多摩号の回送はしばらく来ないようなので、青梅鉄道公園の保存車を訪問。 クモハ40054号車。 ・車歴 製造年 1935年 製造所 田中車輛工場 2006年 廃車 国鉄が東京・大阪地区の通勤輸送用として、1932年(昭和7)から製造をはじめた電車です。1両あたりの定員を増やすため、車両の長さを従来の通勤電車より約3m延ばして20メートルにしています。また、運転席が車両の前と後ろに1つずつあるのが特徴です。 クモハ40054号は1935年(昭和10)に田中車輛工場(今の近畿車輛)で「モハ40134号」として新製され、当初は総武線で使われました。山手線を経て戦後は中央線を中止に走り、1962年(昭和37)に日光線へ転じました。昭和20年代半ばに青梅線へ配属されたこともあり、青梅〜氷川(現・奥多摩)間を1両編成で往復しました。なお、青梅線ではその後もクモハ40形電車が活躍をしていましたが、1978年(昭和53)3月を最後に全車引退しています。(案内板より) クモハ40054号車は同形式が各線から運用離脱後もイベント列車用として残され、2006年まで車籍を有していました。鉄道博物館に行くことになったC51 5号機と入れ替わりでこの青梅鉄道公園に保存されました。 最終所属は横コツ(国府津)でした。 車体もかなり良い状態で保存されています。 車内。”整備中のため公開していません”との張り紙が貼ってありましたが、今後公開されることがあるんでしょうか。 園外側の表示は青梅行き。 隣にはC11 1号機。 ・車歴 製造年月 1932年8月 製造所 汽車製造 1933年7月31日 奈良機関区 1936年3月31日 山田機関区 1942年3月31日 鳥取機関区 1946年12月31日 福知山機関区 1962年7月5日 大宮機関区(保存のため) 1962年10月26日 大宮機関区にて廃車 この形式は都市近郊で近距離旅客列車用として製作された、昭和初期の代表的タンク機関車です。 この機関車はその第1号機として昭和7年6月(1932年)汽車会社で製作され昭和37年まで関西方面で活躍していました。(案内板より) 関東地区に縁はありませんが、トップナンバーということで保存されたのでしょう。 動輪は塗装されていますが、薄く刻印も確認できました。 キャブ内。 後ろから。 C11 1号機の後ろにはE10 2号機。 ・車歴 製造年月日 1948年3月11日 製造所 汽車製造 1949年5月12日 人吉機関区 1950年2月1日 金沢機関区 1957年6月20日 米原機関区 1962年7月6日 大宮機関区(保存のため) 1962年10月26日 大宮機関区にて廃車 急勾配線用として製作されたもので、わが国最大のタンク機関車です。当初はトンネル区間を運転するため煙突を後にして後ろむきに運転する構造となっていました。双曲線通過に無理のないよう第3・4動輪タイヤにはフランジがありません。 この機関車は昭和22年(1947年)汽車会社において製作されたもので、最初奥羽線庭坂ー米沢間に、その後に肥薩線人吉ー吉松間や北陸線金沢ー石動間の勾配線に使われ、昭和32年から北陸線米原ー田村間を運転していたものです。(案内板より) 製造から14年目には保存されたという珍しいカマ。保存された後のほうが現役時代よりも3倍以上長いんですねぇ。 動輪は塗装されています。 キャブ内。 後ろから。 建物に近い場所にはD51 452号機。入口からそのまま保存車両スペースに来ると、最初に見ることになるカマです。 ・車歴 製造年月日 1940年2月28日 製造所 汽車製造 1940年3月6日 原ノ町機関区 1950年1月16日 長町機関区 1966年10月6日 青森機関区 1967年7月26日 竜華機関区 1972年5月11日 竜華機関区にて廃車 この形式は、D50形式(大正12年から製作)に代わる主要幹線貨物列車用として、昭和11年から製作されました。終戦までに、同一形式としては最多数の1100両以上が製作されて全国に配置され、デゴイチ(D51)の愛称で親しまれています。とくに戦後の貨物輸送を通じて日本の経済復興に大きな役割を果たしました。 この機関車は昭和15年汽車会社で製作され、昭和40年まで東北本線 郡山ー盛岡間で、その後昭和47年まで関西本線 亀山ー天王寺間で活躍し、32年間に213万km(地球を60周)を走破して、この地に引退したものです。(案内板より) 集煙装置が取り付けられた状態で保存されています。 側面。 動輪は塗装されていますが、刻印も確認できました。 プレート周り。 キャブ内の状態も良好ですが、計器類の文字盤が一部破損しているのが見えます。 後ろから。 少し離れたところにはED16 1号機。 ・車歴 製造年月日 1931年4月30日 製造年月日 三菱造船 1931年5月12日 甲府機関区 1953年4月16日 八王子機関区 1953年12月14日 西国立機関区 1959年4月19日 鳳電車区 1959年9月5日 八王子機関区 1959年11月30日 西国立機関区 1963年4月1日 立川機関区 1980年10月1日 立川機関区にて廃車 ED16形式は昭和6年に開発され、18両製作されました。現役の電気機関車としては国鉄最古の形式で、当初は中央線 八王子ー甲府間、上越線水上ー石打間などで、活躍しましたが、昭和40年以降全機が立川機関区に集結し、南武線・青梅線を主体に貨物輸送の主力となって、半世紀の永きにわたり活躍しました。 このED161号は昭和55年9月末まで使用されましたが、10月の時刻改正により現役を退き、昭和55年10月14日準鉄道記念物(42番目)に指定されました。(案内板より) 準鉄道記念物に指定されているカマ。1エンド側。 側面。 プレート周り。 2エンド側。 階段を下った場所の広場には0系22−75号車。 ・車歴 製造年月日 1969年8月7日 〜1985年3月 「こだま」用として活躍 1985年3月 浜松工場にて廃車 鉄道公園の新幹線は、東海道で活躍をしていましたが、長い仕事を終え昭和60年3月に浜松工場より運搬され、当公園に設置されました。 開業当初は、東海道新幹線だけでしたが、現在では山陽・東北・上越・山形・秋田・長野・九州・各新幹線が開業し、日本の主要都市を高速で、しかも正確、安全に運転され、私達の生活に欠かせない交通機関です。 公園に展示されている新幹線の車両は、東海道新幹線を走っていた22形式です。(案内板より) 1982年に、台風の影響を受けC51 5号機が転落した場所が造成されて広場になっています。 車内。 運転台も公開されています。 後ろから。 長くなりましたので、(2)に続きます。
京王資料館の保存車[移動]
4月8日の話。
この日は、日野市「平山季重まつり」の一環として、京王平山研修センター内京王資料館の保存車が特別公開されたので、訪問してきました。 京王平山研修センターには3両の保存車と膨大な資料類が保管されていますが、普段は一般公開がされておらず、毎年4月に行われる「平山季重まつり」やその他のイベントでのみ特別に公開が行われます。 ということで、まずはデハ2410。 ・車歴 製造年 1940年 製造所 日本車輌 京王電気軌道400形として製造され、大東急時代に改番。デハ222に改造後、1969年11月まで活躍、修復され多摩動物公園駅前に保存。その後ここ平山研修センターに移設され保存されています。 逆光側から広角で。 側面。 後ろから。 続いて、デハ2015。 ・車歴 製造年月 1961年12月 製造所 日立製作所 同形列は京王線から引退後は伊予鉄道に譲渡され、さらに伊予鉄道から銚子電鉄に譲渡され現在も活躍しています。 顔は意外とぺったんこ。 凛々しいですねぇ。 後ろから。 最後に、クハ5723。 ・車歴 不明。詳細が分かり次第追記します。 営業運転としては1996年まで、その後も事業用車としては2004年まで残った京王5000系の1両。京王から引退後は富士急・伊予鉄道・一畑電車・高松琴平電鉄等に譲渡され現在も活躍しています。クハ5723は1996年のさよなら運転時に使用された編成に組み込まれた車両。 側面。 表示は「特急 京王八王子」。 後ろから。 3両とも大変貴重な車両、これからも大切に保管してほしいものですね。 京王資料館には開業時から現在までの様々な資料が保管されていますが、一部を見ることができました。 皆さんも機会があればぜひ。平山城祉公園駅からバスです。 この後は、EF81牽引の黒磯訓練の撮影へ。続きます。 ※京王れーるランドに3両とも移動しました。
上千葉砂原公園のD51 502
4月2日の話。前回記事の続きです。
北鹿浜公園のC50 75号機の後は、上千葉砂原公園のD51 502号機を訪問。 ・車歴 製造年月日 1941年9月30日 製造所 鷹取工場 1941年10月 奈良機関区 1947年 小郡機関区 1956年11月 新鶴見機関区 1957年11月1日 新津機関区 1967年 酒田機関区 1972年1月31日 酒田機関区にて廃車 D51蒸気機関車は、国産の近代化機関車として1936年(昭和11年)2月に第1号が製造されてから1945年(昭和20年)1月を最後として、その間10年間に1116両製造された国鉄の代表的な機関車です。 本機関車は、その内の標準型であり、昭和16年9月に国鉄鷹取工場(現在の兵庫県神戸市須磨区大池町)にて製造され、直ちに奈良機関区に配属されたのを始めとして、広島第1、新鶴見、新津、直江津、各機関区管内を走り、最後に酒田機関区管内にて、昭和47年1月に廃車となり、その間の走行キロ数 約18770347kmを運行し、昭和47年3月、当公園に保存することになりました。(案内板より) 近年整備され、状態は良好です。 正面から。 厚塗り感の無い塗装が良い感じ。 側面プレート周り。 キャブ内。アクリル板で遮られていますが、機器類はよく残っています。 後ろから。 今後もこの状態を保ってほしいものです。 この後は、ユーカリ交通公園のD51 405号機を訪問しましたが、残念ながら公開時間外でしたので、詳細は確認できず。次回は、D51 405号機の後に訪問した柏西口第一公園のD51 453号機を。続きます。 | カレンダー
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